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八重の兄。山本覚馬の最初の妻うらのその後について。
また前回の川崎尚之助の記事について、いくつか訂正があります。



前回の記事で、私は「会津人は尚之助のことを一切語らなかった」「尚之助の人柄については、直接の証言は一切残っていない」ということを書きました。

しかし新たにネットで得た情報ですが、1922年発行の「會津会々報」20号には、尚之助と親しかった大沼親光という人の談話として、次のような言葉が紹介されているそうです。

「尚之助様と言えば、とてもさっぱりした方で、よく気が利いて優秀で、何でもできないことはなかったですね。でもって、和歌も書画も詩文もお上手でした」
「鳥越にいた時も、とても落ち着いてましたね。狂歌をお詠みになりました。
字もすごく上手で文才があって、でも書いた紙は取っておいてないんですよ。惜しいことしました」


この大沼という人がどういう人か分かりませんが、会津の歴史雑誌にこういう証言が掲載されるということは、会津は必ずしも尚之助の存在を全否定したというわけではなかったのかとも思います。
しかし、この史実の尚之助の人物像はいいですね。ドラマで書かれた誠実で優秀な人柄に加え、洒脱な一面もあったようです。


今回は樋口うらと山本覚馬の離婚の原因、そしてうらのその後について語ってみようと思います。

もっとも山本兄妹や川崎尚之助と異なり、うらは特別な事績もなく、資料も大変に少ないのでほとんどが空想・想像の類になります。

うらの実家の樋口家は勘定方と言われる以外、詳しいことは分かっていないそうです。
砲術師範の山本家嫡男と結婚できるのだから会津藩内ではそれなりの家格ではあったのでしょうが、おそらく会津戦争で実家は滅亡状態、樋口家に関する資料も焼失・散逸してしまったものと思われます。

うらが覚馬と結婚したのは1857年、覚馬29歳、うら20歳の夫婦でした。
一女が生まれますが夭折、次女のみねが1862年に生まれ、しかしこの年に覚馬は藩主松平容保の京都守護職就任にともない、会津を発って京都に向かいます。

これが夫婦永遠の別れになるとは誰が予想したでしょうか。
さらに覚馬にとっては父権八と弟三郎とも永遠の別れであり、母佐久・妹八重・実子みねの顔も、この時の別れを最後に死ぬまで見ることはできなかったのです。

さて、その後の会津戦と会津藩の滅亡、山本家の米沢移住などについてはここでは繰り返しません。
いすれにせよ、うらたちが覚馬と別れてから9年後、覚馬が京都で死んだ(行方不明になった)と聞かされてから3年後の明治4年(1871)、覚馬が京都で生きて新政府の役人になっているという事実が知らされ、連絡を取ることもできるようになります。

事実としては、結果として佐久と八重とみねだけが京都に行き、うらは米沢に残りました。
その内情はどういうものだったのか……を考えるのに、材料はほぼないといっていいのですが、あえていうなら覚馬や当時彼の子供を産んでいた小田時栄の人柄を考えることで、類推はできるのではないかと思います。

小田時栄の出自についてはすでにネット各所で触れられていますが、丹波郷士の家の娘で、兄の勝太郎は御所に出入りし覚馬の洋学所でも学ぶというエリート・インテリでした。
1864年の禁門の変をきっかけに目を病みはじめた覚馬に、勝太郎は当時13歳の妹・時栄を身の回りの世話をする係りとして斡旋したといいます。
嫁入り前の13歳の妹を30半ばの男の側に送り込む感覚というのはどういうものだったのか、正直に言って私には理解できません。

好意的に考えれば、
「いくらなんでもまだ12,3歳なんだから大丈夫」
というのと、あと覚馬が
「覚馬先生なら大丈夫」
「万が一手を出されても覚馬先生なら許せる」
と思われるような人格者として弟子に慕われていたということではないでしょうか。
覚馬37歳、時栄13歳(数え年)の出会いでした。

結果として、覚馬は時栄に手を出し、子供まで生ませてしまいます。
時栄がどういう人柄だったのかはわかりません。しかし後年の徳富蘆花の小説によると、明治18年(1885)、時栄が二度目の妊娠をしたものの覚馬が「身に覚えがない」と言ったことで時栄の不祥事が発覚し、覚馬は時栄を許そうとしたものの八重が赦さずに時栄を山本家から追い出したといいます。

額面通りに受け止めれば、覚馬は加齢と身体の障害ですでに女を抱けないようになっていたのに時栄に執着し、不倫をされてもかばうほどだったということで、じつに生々しい話です。
もちろん小説なので話半分としても、それでも覚馬が時栄に強く執着していたのは事実ではないでしょうか。

端的に言って、時栄は覚馬のストライクゾーンにドンピシャの女だったのではないでしょうか。
時栄が何か学問をしたという話は伝わっていませんが、京都の良家の子女として13歳の時点でかなりの教養があっただろうし、また洋学を学ぶような人物の妹なので、その血を引いて才気がある、打てば響くような、知性と先進性を持った男にとっては話していて小気味のいい娘だったのではないでしょうか。

ここで思い出されるのは、八重と尚之助の関係です。
八重の性質と異性の好みは、才気煥発で強い印象を放ち、相手にもそういうものを求めるというもの(私の個人的な想像にすぎませんが)。
八重の実兄・覚馬が同じような人間だったとしてもおかしくはありません。

うらがどういう性格の女性だったのかはわかりません。
大人しい従順な嫁だったかもしれないし、武家の女らしく気位が高く、また優秀な主婦だったかもしれません。
しかしいずれにしても、当時の日本社会では普通に居るタイプで、八重のようにアクが強く男勝りというタイプではなかったと思います。

会津で暮らしている時は女房に対し特に不満はなかったけれども、京都で好みにピッタリの娘に会い、しかもそれが失明の危機に瀕して不安にさいなまれている時期となれば、その相手に耽溺したとしても不思議ではありません。

ここから先は完全に妄想の類ですが、時栄も煥発過ぎて当時の武家社会では容れられないタイプで、覚馬に会って自分の性質を肯定的に捉えてもらい、喜びを感じたかもしれません。
眼病の進行と闘いながら、学者として藩士として働き続ける覚馬に対する尊敬の念もあったでしょう。

もっとも、それが本物の恋愛感情に変わるかと言えばそれは別の話でしょう。
時栄と覚馬は23歳差です。時栄がせめて20代になっていればともかく、10代の少女にとって23歳年上の男は恋愛対象にはならないと思います。
もし若干の好意があったとしても、覚馬に手を出された時点でそれは消し飛んでしまった。
覚馬介助のために薩摩藩邸に赴いたのは自分の意志ではなく、覚馬が執拗に時栄を望み、兄にも命令されたから。
操を失った身ではどうにもならず、さらには子供まで出来てしまった以上はもう諦めてこの人についていくしかない……と決めた所に、会津から覚馬の実家の家族がやってきた。

というのが、私の考える時栄のストーリーです。
証拠は一切なしの妄想の類ですので、その点はご容赦下さい。

さて、本題に戻ります。
覚馬とうらの離婚の原因について、ドラマではうらが
「今さら若い妾と張り合えないし、そんなところを旦那様にもみねにも見せたくない」
と考え自分から身を引いたということになっています。

情緒的で劇的なシーンでしたが、しかし、実際の覚馬とうらの別れはそういうものだったのでしょうか。

みねはまだ満9歳です。夫にどう思われようと、若い妾に女として敗北しようと、愛娘の側に居てやりたいし、自分も娘の側に居たいと思うのが普通の母親の心理ではないでしょうか。
とりわけ、みねが生まれて以来夫と離れて暮らし、実家も没落したうらにとってみねは二重三重にかけがえのない存在だったはずです。

もしうらが覚馬と離婚して時栄が覚馬の妻になれば、みねは時栄の娘ということになります。さらには継子いじめされる可能性だって否定できないし、父の覚馬も新しい嫁とその子に心が移って積極的にはみねの味方をしないかもしれません。

八重や佐久がついているから大丈夫だと考えたのだろうなどとは、ごまかしの解釈でしかないと思います。

結論から言って、覚馬は、みねと佐久、八重は京都に呼んだもののうらには離縁を申し渡し、手切れ金ぐらいは渡したかもしれないけれどもその後の生活費を面倒見ることもしなかったのではないかと私は思っています。

5年暮したもののその後9年間も会っておらず、好みのタイプでもなかった女房のために、運命の相手(と覚馬は思っている)である時栄と別れたり離れたりするどころか、正妻に対する妾としてうらの風下に立たせるのも嫌だった。
そもそも覚馬はうらには愛情も残っておらず、会いたくもなく、一方で時栄と正式に結婚したくてたまらなかった。

江戸時代(明治になっていますが)妻の立場は弱くなかったと言われていますが、それはあくまで実家の力あってのもの。
会津戦争でうらの実家の樋口家が没落したのは、覚馬にとっては
「行くあてのない女房を放り出すのは忍びない」
ではなく、
「これで後腐れなくうらを追い出せる」
というふうに思えることだったのではないでしょうか。

おそらく生活費を渡すこともしていないというのは、もしうらが京都府顧問・京都府会議員・京都商工会議所会長たる山本覚馬からの仕送りで会津で安楽に暮していたら、うらのその後が一切不明で、没年も死没地も分からないという状況にはならないはずだからです。

京都で新政府に職を得て、最愛の女性との間にも一児をもうけ、新しい国と都市づくりという事業に臨んでいた覚馬にとっては、あとは母・妹・娘という肉親だけが大事で、昔の古女房は、詐欺事件の被告になって大借金を負った義弟と同様、切り捨てたい対象でしかなかったのではないでしょうか。

八重と佐久はうらをかばおうとしなかったのかという疑問が残りますが、これは、二人とうらの仲がそれまでどういうものだったかということより、京都での新生活を提示されたら、一番苦しい時を支え合って過ごした絆などは一瞬で反故になってしまったということだと思います。

八重は京都の覚馬のもとに来た年の翌年、京都女紅場の舎監に出仕しています。
当時の時点では、八重が将来新島襄と結婚するなどは考えられなかっただろうし、バツイチで20代後半になっていて、一方で体力と気力が有り余っている女性の落ち着き先としては悪いものではありません。
しかし前後の事情が事情なので、二十歳そこそこの時栄が海千山千で気が強い佐久と八重と同居するのに耐えられず、見かねた覚馬がとりあえず八重を追い出したのではないかと勘繰ってしまいます。
洋学者の兄を持つ才気煥発な女という共通点を持ちながら、八重と時栄の間に友情が生まれることはなかったのでしょう。

書き忘れましたが、八重兄妹の父権八は婿養子なので、山本家の血というものは母の佐久から伝えられたものです。
佐久はwikiにもあるように頭の切れる女性で、後には同志社女子の舎監になり、外国人教師に「新島夫人とその母上が生徒を支配するので我々の意志が彼らに伝わらない」と嘆かせたほどの女性です。(同志社大のHP
そんな姑と小姑に挟まれ、時栄が不祥事を起こした心理が少しわかるような気もします。

明治19年、不祥事を起こしたとされる年の翌年、時栄は覚馬と離縁して山本家を去ります。
実家に戻った形跡もないようだし、その後の消息が不明という点では奇しくも先妻のうらと同じです。

その後、時栄の娘の久栄は病で早世し、みねは横井小楠の長男時雄と結婚します。
みねも男児を生んで早々に亡くなりますが、この子平馬が山本家の跡取りとして迎えられ、その血筋は少なくとも昭和戦後まで続いたようなので、結局覚馬の遺伝子を後世にまで伝えたのはうらの血筋だったということで、うらには、これをもってせめてもの慰めとして欲しいと思います。
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コメント

和田 俊(しゅん)

樋口うら はその後、俊(しゅん)と名を変え、和田吉十郎と婚姻、遷吉とマツが生まれた様です。

Re: 和田 俊(しゅん)

コメントありがとうございます!
うらのその後は、そういうものでしたか。
私の推測は外れと言うことになりますが、新しい相手に巡り会って子供ももうけて、
少なくとも路頭に迷うというものではなかったのならめでたい限りです。

和田吉十郎というのは初めて聞く名前ですが、
地方だから地縁も強くて、再婚の世話をしてくれる人もいたのでしょうか。
覚馬に離縁された時栄もその後再婚したと聞いたことがあります。

とにもかくにも、ご教示ありがとうございました。

No title

和田俊(樋口うら)の子で、第2子の遷吉は子が5人ほど、第3子のマツは佐治家(野口英世とニューヨークで親交のあった佐治敬助の兄)へ嫁いだ様です。戸籍記録が遺っておらず、参考に留めてください。

Re: No title

再びのコメントありがとうございます!
子どもたちの様子を見るに、和田氏はかなりの名士のようですね。
ますます私の予想は大外れ…ということになりますが、うらが良い人生を送れたのなら喜ぶべき事です。

このたびはわざわざご教示ありがとうございました。
今後も歴史関係の記事を書けるかどうかは心許ないのですが、お立ち寄り下されば幸いです。

樋口俊(うら)、会津と広島

 樋口俊(うら)の長男 和田遷吉は、高等小学校を卒業し会陽医院(渡部鼎)の書生となっていた野口英世に英語を教えた人物と同一と思われます。
 遷吉の長男[俊(うら)の孫] 八十彦は広島出身の小鷹狩芳子と結婚。
 なお、芳子の兄(八十彦の義兄)は広島藩 家老の末裔で、會津藩士の末裔(14才で戊辰戦争を経験)の娘と結婚、二人の子にペギー葉山がいます。

参考:
 渡辺淳一:遠き落日。
 ペギー葉山のブログ 2013/06/03

Re: 樋口俊(うら)、会津と広島

コメントありがとうございます。

なにぶん知識がない状態で書いた記事ですので今見ると冷や汗ものなのですが、そのような記事に重要な知識を伝えて下さり、恐縮の限りです。

ご教示いただいたペギー葉山さんのブログ拝見しました。
ペギーさんの母方のお祖父様の名は「住吉貞之進」氏とおっしゃるのですね。

この貞之進の娘と、うらの孫の妻の兄(小鷹狩氏)が結婚、ペギー葉山が生まれる。

と、整理するとこのようになります。
wikiのペギー葉山の項目にも以下の記述があります。

>父方・小鷹狩家の先祖は広島藩主・浅野家の家老職を勤めたこともある由緒ある家系。また母方の祖父は白虎隊の生き残りである。

それにしても、今年83歳で亡くなった方の祖父が会津藩士で、白虎隊に入る寸前の人だったとは。
歴史はずいぶん近いところにあるのだなと思いました。
ちなみに太平洋戦争を終戦に導いた首相・鈴木貫太郎は慶応3年大坂の生まれで、鳥羽伏見の戦いの時は赤ん坊のまま戦火にまかれて大人に連れられて避難したそうです。
その後も多数の死の危機からよみがえり「不死身」と呼ばれたとか。

またペギーさんがブログをやっておられたことをこのことで初めて知りましたが、お年にもかかわらず記事のコメントに長文で丹念な返信をしておられ、そのことにも感嘆しました。

その意味でも有益な体験で、重ねてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

群像に想いをはせて

安梓さま
丁寧なリサーチとコメントを、ありがとうございました

原寸大の地球儀、その中で命を燃やす原寸大のアイテムたち..
ごく平凡な自分にも与えられた命とつながりを、これから大切にしていきたいと考えさせられる、素敵なウエブサイトと思います

これにて失礼します

こちらこそ

ご返信、こちらこそありがとうございます。

過分な、そして詩的なお褒めの言葉を頂き、恐縮の極みです。
有名どころの人物ばかりでなく、違う方向から歴史を見て、歴史がグワッと立ち上がって見えるというそういう瞬間ってありますよね。

最近あまり歴史関係記事をあげられていませんが、今後も時折のぞいていただければ幸いです。
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Author:安梓
読書と映画鑑賞が趣味の安梓です。

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