『赤い宿屋』東京創元社バルザック全集・第10巻 水野亮訳感想です。





(あらすじ)
 フランス人青年の主人公は、ある晩、とあるパリの銀行家が催した夕食会に参加する。会にはドイツの大商人・ヘルマンが招かれており、また別の、これは陽気になったり陰気になったりする奇妙な様子をした、タイユフェールという商人も参加していた。列席者に聞くと、タイユフェールには娘が一人いるということだった。
 食後、ヘルマンは座興として昔の思い出を語り出す。
 
 1799年、二人の若いフランス軍医が、仏墺戦争に従軍し、国境の小さな町アンデルナハに宿泊した。二人は小さい頃からの仲良しで、二人のうち一人はマニャンという名だった。

 ヘルマンの口からマニャンの名を聞いたタイユフェールは、突然動揺して震えだす。ヘルマンは、もう1人の名は忘れたと言い、仮の名としてウィルヘルムという名をつける。

 マニャンとウィルヘルムはアンデルナハの、壁が赤く塗り込められた宿屋に泊る。宿が混んでいるので、二人は、ヴァルヘンフェルというドイツ商人の男と相部屋になる。ヴァルヘンフェルは、自分は全財産の十万フランという金を持ち運んでいるので不安でたまらないと打ち明ける。皆が寝静まった頃、マニャンは故郷で自分を待っている母や好きな娘のことを考え、所持している外科道具でヴァルヘンフェルの首を切り、金を盗むことを考える。しかしいざ実行しようとすると震えが来て結局止め、寝床に戻る。
 だが翌日、マニャンが目覚めるとヴァルヘンフェルは首を落とされて殺され、十万フランも奪われていた。マニャンは駐屯していた仏軍に逮捕され、強盗殺人犯として処刑される。

 ヘルマン氏は、このときドイツ兵として捕えられマニャンと同囚になったために、マニャンから一連の話を聞いていたのだった。
 ここまで話したヘルマンは、ふいに、マニャンの連れでヴァルヘンフェルが死んだ朝に金とともに行方不明になったもう一人の軍医がフレデリックという名だったことを思い出す。それを聞き、タイユフェールはいっそう震え上がる。
 主人公はタイユフェールが商人を殺して金を奪ったフレデリックその人ではないかという疑惑を抱き、それとなくタイユフェールに探りを入れると明瞭に怯えるので、さらに確信を強める。
 しかしその一方で、主人公はタイユフェールの娘ヴィクトリーヌに恋をしていた。ヴィクトリーヌは器量も性格もいいだけでなく、父を心から尊敬していて、事あるごとに父の立派さを主人公に語るのだった。
 そこで主人公は、自分がどうすべきかを友人たちに相談する。友人たちは合議し、僅差で結婚反対派が勝つが、実はタイユフェールは二か月も前に死んでおり、主人公は結論を出しているのだった。
 主人公は、マニャンには相続人がいないこと、殺された商人の遺族を探し出すこともできなかったことを言い、さらに孤児となった娘にその財産は血にまみれていると告げるのも、慈善事業に寄付するのも不毛であり、何よりも自分はどうしてもヴィクトリーヌをものにしたいのだからその点でもこのことは黙っていて、財産はそのままに結婚するつもりだと告げる。

(感想)
 バルザックの作品はどれをとっても外れなしだとは思いますが、正直に言って、少なくともこの『赤い部屋』は駄目でした。
 悪事を働き、悪人が報いも受けずに栄えて終わるという点では『ピエレット』も同じですが、あちらは読後感はそうは悪くありませんでした。登場人物はみな卑劣そのもので、この作品のタイユフェールのように良心の呵責に苦しむということさえありませんが、むしろだからこそいいとも言えます。
 『ピエレット』は悪を悪として、悪人を悪人として書き、贖罪につながる行為をさせません。しかし、読者への弁解でしかない贖罪もどきは、何もしないよりはるかに醜いと言えます。
 主人公に初めて会った時点でタイユフェールは陰気さと陽気さが交互に入れ替わる奇妙な様子をしています。他にも激しい発作を起こして、それが罪悪感からのものであることも暗示されますが、結局最後まで罪を告白して財産と世間的名誉を失うことなく逝きます。そもそもタイユフェールの娘のヴィクトリーヌは、「最近認知した」と言うからには愛人の娘です。タイユフェールは過去の罪に怯えながら奪った金を巧みに運用して巨万の富を築き、正妻の他に愛人を設けてそれぞれ両方と子供を作っていたのです。
 もちろん罪滅ぼしのために犠牲者の遺族を探したり、財産を慈善事業に寄付していたという形跡もありません。描写を見る限り、社交界の常連でもあったようです。本当に良心の痛みに苦しめられているのなら、百歩譲って自首や贖罪につながる行動はできないにしても、奪った十万フランを抱えて世間との交際を避け、細々と隠れ生きるというようになるのではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、これなら良心を全く欠いた悪人として書く方がまだましです。作中で導入される「実行を想像しただけでも罪となるか?」という命題も、読者の矛先を反らすためにタイユフェールの被害者を貶めているようにしか見えません。
 しかしそのタイユフェール以上にひどいのが、主人公です。途中まではタイユフェールを人殺しと呼び、必ずその仮面を剥いでやると息巻いていたのにタイユフェールの娘を好きになると手の平を返し、ついには、タイユフェールの罪は大したものではなく、それを明らかにするのはかえって良くないと吹聴します。主人公の最後の長広舌を要約すると、次のようになります。

「確かに、彼女が父親から相続したものは血畑(ハケルダマ)です。しかしマニャンには遺族がありませんし、殺された商人の遺族をを探し出すこともできませんでした。娘さんに『あなたの財産は血にまみれています』と言って財産を取り上げるのは不毛だし、慈善事業に寄付するのも無駄金です。何より、贅沢が好きでそれに慣れた若い娘に正義感を振りかざして、一文無しになりつつましく暮らそうなどと言ったら、彼女は笑って僕のもとから去り、口うるさいことを言わない二枚目の軍人さんあたりとくっついてしまうでしょう」

 ここで出てくる血畑(ハケルダマ)はアケルダマとも言い、イスカリオテのユダがイエス・キリストをユダヤの祭司長に売った際に引き換えに貰った金で勝った土地のことを言うらしいです。

この人は、かの不義の値を持ちて地所を得、また俯伏(うつぶせ)に堕ちて直中より裂けて臓腑(はらわた)みな流れ出でたり。この事エルサレムに住む凡(すべ)手の人に知られて、その地所は国語(くにことば)でアケルダマと称(とな)えられる、血の地所との義なり。それは詩編に録(しる)して「かれの住処(すみか)は荒れ果てよ。人その中に住まわざれ」と云い、又「その職は他の人に得させよ」と云いたり。
―――使徒行伝第1章18-20


 私は『子連れ狼』に出てきた、「人を殺した金で田んぼを買ってどうなる! 赤い米がとれると言われるだぞ!」という台詞を思い出しました。  
 キリスト教徒が、一つの罪を表現するのにキリストの死に関する語を持ち出すというのはよくよくのことだと思うのですが、その上であっさりと、色恋のためにその罪を隠蔽してしまえるというのが、私には信じられませんでした。
 タイユフェールに殺された商人の遺族を探し出すことは不可能だったと主人公は言っていますが、本当に本気で探したのでしょうか。タイユフェールの娘が、作中で主人公に称賛される通りの気立てが良い人間なら、血に塗れた金を捨てることを厭い、それで栄耀栄華をしたがるなどということがありうるでしょうか。そもそも主人公は、真実を告げられた際にヴィクトリーヌがどういう行動をとるかということを勝手にはなから決めつけていますが、もしかしたら主人公の言葉を聞き入れ、汚れた金を手放す可能性もあるのです。
 気立ても器量も良いが一文無しの娘というのを一番いやがっているのは、「タイユフェールの財産」=「首を切り落とすという猟奇的な手段で持ち主を殺して奪い、巻き添えに何の罪もない竹馬の友を処刑させたという金」を欲しがっているのは、主人公その人ではないかとさえ思えます。

 書き手の理念のなさに応じるかのように、この作品は小説としてもご都合主義で不出来です。マニャンが犯人だと決定される理由などは推理小説風でバルザックの才気を感じはするのですが、唐突にタイユフェールの美人の実子が現れたり、喧々諤々の議論をした後で実はタイユフェールは死んでいるということを明かしたりします。巻末の解説も何となく歯切れが悪いように思えるのですが、やはり訳者の先生も、この小説に褒めにくいものを感じているのでしょうか。

 もっとも、金というものの魔性を書いたというのであれば、これは相当の成功作だと思います。
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